衛藤 彩子 さん
「私はこの小説だけは鉛筆で書くことにした」という出だしの一文が、実にキム・ヨンス作家らしいと思った。
彼は執筆にあたって膨大な歴史資料を読み込む。だから、作品に登場した実在の人物は本当にそう行動したように見える。一人称で語られる物語は、どこからどこまでが現実なのか曖昧で、「これは実際にあったことなのか?」と戸惑いながら読むのが、かえって快感だったりする。
『ニューヨーク製菓店』がキム・ヨンスの自伝小説であると知っていれば、語り手の「私」はキム・ヨンスだと思いながら読み始める。しかし、冒頭2ヶ所で、わざわざ「小説」であることを書くことで、いつもの戸惑いが生まれる。
本編のエピソードは、ある一定年齢以上の人なら懐かしさを感じられるのではないか。私は「キレッパシ」のくだりで舌先に甘さが蘇ってきた。かつて住んでいた町の商店街には長崎屋という製菓店があり、そこでカステラの切れ端が袋に詰めて売られていて、時々、母親が買ってくれたものだ。ニューヨーク製菓店も飼い犬にやらず売ればよかったのに…
そんなことを思い出しながら3分の2まで読んだところで「今からする話は…」と、鉛筆で小説を書いていた「私」が語り始める。
ニューヨーク製菓店の全盛期は、全斗煥政権時代(第五共和国)と完全に重なっていたそうだ。「私」の心の中に残る灯りのすべてだという時期は、長いようで、わずか数年間。この数年間の韓国をよく知らない私には想像すべくもないが、ニューヨーク製菓店の閉店が1995年というのには少しドキッとした。チョン・イヒョンの自伝的短編「三豊百貨店」を読んだときと同じような感覚を覚えたからだ。
私にとっての1995年は阪神大震災だが、生活の中にあった場所が永遠に消えていったという当事者でありながら、消える瞬間を目の前で見ることはなかったという何とも言えない感覚は、両作品で書かれたことに似ていると感じる。「単に消えてしまえばそれまでだろうか?」「目に見えないからといって消えたというわけではない」と語る「私」は消えた瞬間に立ち会えなかったからこその言葉にも感じる。
鉛筆は消すこともできるが、ペンよりも長くはっきりと紙の上に残る。その鉛筆で書かれたという小説に記憶を揺さぶられながらも、「どうせ人生とはそういうものではないか」という言葉に癒された。